伊那大島城

お知らせ

● 令和5年5月3日(祝水)

4年ぶりに台城つつじ祭りが開催されます。

5月の空にたなびく鯉のぼりと満開のつつじは圧巻です。

楽しい催しも多数!ぜひお越しください。

 

【お問い合わせ先】36-3111

 

大島城推定図(宮坂武男氏作)

「大島城推定図」宮坂武男氏作(長野県立歴史館所蔵)

台城公園の様子

台城公園(大島城跡)

松川町を代表する城「大島城」

地元では台城公園でお馴染みの場所です。

大島城の歴史

 大島城は鎌倉時代、当時の大島町(現在の古町、新井地区のあたり)を支配していた豪族の大島氏によって造られた山城で、戦争など有事のために天竜川へ突き出した攻められにくい土地を活用して築城しました。

大島氏は、片切氏の初代(片切為基)の孫の宗綱が平安時代末期に名子郷の東に続く大島郷に移り住み、土地の名をとって大島八郎宗綱と名乗ったことにはじまります。

その後大島氏は鎌倉、室町、戦国時代まで大島町を統治し、城を所有してきましたが、戦国時代の天文23年(1554)に伊那郡を攻めてきた武田信玄がこの城を大島氏から取り上げ、元亀2年(1571)大規模で複雑な形に大改造しました。武田信玄は三河へ進出するための伊那谷の拠点として、天竜川の水運による物資の輸送も想定でき、なおかつ攻められにくい地形にある大島城に目をつけ、さらに守りの堅い城に作り替えるため少なくとも2回の大改修を行いました。

天正10年(1582)に織田信長が伊那郡に侵入したとき、大島城は信玄の弟の武田信廉が守っていましたが、織田軍の進撃に驚き、夜中に城に火をつけて逃げてしまったことが信長の一生を書いた『信長公記』などに記されています。

その後時代とともに城地としての役割はなくなりましたが、現在は台城公園として整備され、当時の史跡をゆっくりと散策することができます。

伊那大島城縄張り図

伊那大島城縄張図

本丸

大島城跡 本丸

本丸

城の東の端に楕円形をした本丸があります。本丸の北側から東側、さらに南側は天竜川に迫る断崖絶壁となっており、こちら側から攻めてきても近寄ることは難しいでしょう。
本丸からは陶磁器や古銭、建物跡など が発掘調査によって多く発見されていますが、中でも本丸の南側と北側の二か所から炭になった米が大量に出土しました。これは、ここで火災があったことを示しており、武田軍が敗走する際に火を放ったとされています。
 

二の丸

二の丸北側の櫓跡

二の丸北側の櫓跡

本丸の西にある二の丸は南の一部が突出していますが、本丸より一回り小さい正方形をしています。
北の隅には櫓台があったとみられる土塁が残っており、ここから城の北側を見張っていました。 突き出した二の丸の南端と本丸の入り口は橋で連絡されていたと考えられています。また西側にある馬出とも橋でつながっていたとみられています。

井戸跡

井戸跡

土塁に囲まれた井戸跡

本丸北方の断崖下に隠されるように井戸があります。城の生命線ともいうべき飲料水を確保した井戸の跡で当時のままの石組みを残しています。この井戸は周囲を土塁で囲い、城の外側からは見えないようになっています。

三の丸と馬出し

二の丸のさらに西に三の丸がありますが、その間に馬出と呼ばれる敵の侵入を防ぎ、迎え撃つ役割を持つ子島状の平坦地があります。この馬出を通らなければ二の丸と三の丸の間を進めないように複雑に堀が張り巡らされています。三の丸は「L」字状に近い形をしており、二の丸の西から南を取り巻くように構えられています。三の丸と馬出を結ぶ土の橋は4段の大きな石によって作られていますが、武田流築城法でこのような土橋は類例が少ないです。三の丸の西南の隅にも櫓台跡があり、城の西、北、南方向を監視していました。

三の丸と馬出しをつなぐ土橋

三の丸と馬出しをつなぐ土橋

土橋を支える石組み

土橋の石組み

三日月堀

三日月堀り

三日月堀

丸馬出と呼ばれる門の前の平地の外を囲み、入り口を守るように作られた堀を三日月掘りといいます。当時は水が張られ、正門に敵が殺到するのを防いでいました。現代にこの二重三日月堀が残っているのは長野県では大島城のみで、武田流築城法の技法をほぼ完璧な形で残している貴重な史跡です。

 

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更新日:2023年04月17日

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