竹越遺跡の大型礎石遺構

令和元年度、宮ケ瀬橋の架け替え工事に伴う竹越遺跡(馬坂)発掘調査において、巨大な平石を配した礎石遺構が発見されました。

現在は移転した馬坂自治会所の駐車場地下に埋め戻され、そのままの形で永久保存されています。

竹越遺跡位置

竹越遺跡の位置

巨大礎石の謎

礎石とは

礎石とは、建造物の基礎に配し、柱などを支える石のことを言います。

発掘調査によって検出された遺構は東西5.5m、南北9mの範囲に長さ1.8mほどの花こう岩が18個ほぼ水平に並んでいました。

平石1個の重量は0.6tから0.8tほどで、北の片桐松川から運ばれてきたものとみられます。

遺構の年代は馬坂段丘の地質学的考察や付近から平安時代の鍛冶工房跡や竪穴住居跡、土器片などが検出されたことから平安時代のものと考えられます。

このような巨石を配した遺構はその規模や据え付け状況など、県内はもとより全国的にも類例のないものでした。古代において、当時の最先端の土木技術に基づいて造られた大規模な礎石建物は寺社や官衙(役所)の遺構にはみられますが、こうした建物の建設は国家事業や強大な権力と資金を背景にして行われたもので、馬坂の地にそのような構造物が存在したという記録や伝承はありません。

大型礎石

検出された礎石の様子 人が並ぶとその大きさが一目瞭然

動いた巨石

検出された平石は一見礎石のようですが、配列が極めて不規則で、礎石としての規則性がありません。そのため、建設当時の姿とは異なると考えられます。

大石の周囲に見られる大小の多くの石も、大石を据えた際に揺れや傾きを防ぐために周囲にはめ込んだ石とみられ、巨石も含めこれらの石が何らかの要因によって動き、検出時の姿となったと考えられます。

では、このような大きな石がどのようにして動いたのでしょうか。

まず第一に、部分的に壊れていたり外れていたりする部分が見当たらないため、人為的に巨石を動かしている様子はありません。

人の手によらないとすれば、自然の力によるものでしょうか。

洪水で流された痕跡はないため水の力によるものではありません。そのほかに考えられる要因のひとつとして地震があげられます。それもこのような巨石が動くほどの巨大地震があったのではないかと考えられます。

巨大地震が起きた場合、大きな横揺れが起こるとこのような大きな石が動くこともあるそうです。

発掘担当者がある程度の大きさの木箱に砂を入れ、平石を並べたうえで横方向に小刻みに揺らす実験をしてみると、石は一定方向に動いて集まりました。この結果から、大きな地震であれば巨大な礎石でも動くことは十分考えられます。それも、礎石が地中に埋まってからではなく、地表に出ている段階で大きく動くらしいことがわかりました。

礎石の上には何か木造の構造物が建てられていたと考えられますが、建物が機能していた時期か廃棄された後かは定かでないものの、礎石が埋没しないうちに巨大地震の横揺れによって石が動いたものと推測されます。周囲にある大小の石はこの時に隙間にはめ込まれていたものが押し出されたものと考えられます。

「牧が営まれた地」馬坂

では、このような大型礎石が必要となる建物とは一体どのようなものだったのでしょうか。

全国的にも平安時代の集落内でこのような施設の跡が見つかった例はなく、未だ明確な答えは出ていません。

ですが、このような大きな礎石を伴う建物は個人の所有物ではなく、共同の施設や公的な施設であった可能性が高いとみられています。

古代、伊那谷(飯田・下伊那)は馬の生産拠点で朝廷と強く結びついていたといわれています。

遺構検出地である「馬坂(まざか)」はその昔「牧が営まれた地」と伝えられ、天竜川に沿った広い範囲で牧ヶ原の地名が残っていることからも「牧」に関係した施設が存在した可能性があります。

馬坂を見下ろす段丘崖中にある馬坂天王社の祭神は津島牛頭天王と駒形明神で、共に牛馬の守護神として信仰されています。また、竹越遺跡近くに存在した2基の古墳をはじめ新井に分布する古墳はみな古代に牧を管理した者の墳墓と考えられています。古墳時代末期から奈良・平安時代を通じて馬坂一帯に私牧があったとすれば、それに関わる管理施設が検出された礎石の上に存在した可能性もあるのではないでしょうか。

今後、「古代の馬の生産拠点」としての飯田・下伊那で、馬坂の遺構の謎を解き明かす鍵となるであろう「牧」に関わる具体的な遺構の発見が期待されます。

巨石の発見

巨石が検出された様子

検出作業の様子

検出作業の様子

更新日:2022年01月20日

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